やっと、本題である治療・手術・リハビリの話へ。

…長文になります。でも多分まだ書ききれない。


大阪の病院を2つ巡り、

当時の実家近くの岡山大学附属病院内でも

内科から整形外科へ転科と流浪の民の如く彷徨い落ち着いた。


罹患した横紋筋肉腫は整形外科の領域。

幼少期〜成人して間もない時期に発症することがほとんど。

そして、通常は足や眼底などにできることが多いらしく、

自分みたいに骨盤付近にできるのはほとんど症例がないらしい。

ただし筋肉がある場所のどこでも発症するので、

どこにできてもおかしくないのだそうだ。



まず、当初の予定では

抗癌剤投与を手術前に4回、術後に3回。

放射線照射も1ヶ月程度行うことで方針決定。


抗癌剤ですが、

悪性度も高い腫瘍なため、

はっきり言ってものすごくキツいタイプのものであった。


流れとしては、

まず3日間腕に置き針をして抗癌剤投与、

その後2週間ほどは白血球値・ヘモグロビン値・血小板値が下がるため個室に隔離、

数値がひどい時は輸血。

その後2週間は各数値が戻るのでインターバル。このルーティン。


そして、当然ながらキツい抗癌剤、髪の毛は抜ける。

抜け始めたら結構煩わしかったので、院内の散髪屋で丸刈りにしてもらう。

してもらったらもらったで、抜けた短い毛があちらこちらに散らばって皮膚にチクチク刺さるのもものすごく鬱陶しかった。

あとは眉毛や睫毛も全てではなかったが抜けた。

最初はものすごく鬱陶しく憂鬱だったが、

途中からはもういいや、と特に気にならなかった。

我ながら意外と図太いんだ、と自分を褒めてやっていたw。


当然ながら吐き気も来る。

なんとか食事は摂取するものの、食べてすぐ吐き気が来て戻してしまう。

そのため低血糖で、ベッドに横になっているのに目眩がするという非常に奇妙で危険な経験もした。

低血糖は下手すると命を落とすのです。

なので、固形物がダメなときは飴をよく舐めていた。


そんな吐き気と戦う気力も萎えまくっていたとある日、

横紋筋肉腫の患者を多く見ていたベテランナースから、


「吐くのが嫌でみんな食べなくなって体力が落ちるのよね。

 吐いてしまっても身体の中に食べ物が入るだけでも全然経過が違ってくる。」

と教えてもらったことがあった。


実はもともと食い気で生きている身、

だったら吐いてでも食ってやる!と方針転換をしてみた。

抗癌剤投与中は何故か酸っぱいものを欲すことが発覚し、

母にプリングルスのサワークリームオニオンをよく買ってきてもらってひたすら食べていたw。

今思えばむしろ身体に良くないじゃんと突っ込んでやりたいw。

あとはモスバーガー食いたいと良くリクエストした。w 

マックは却下!w

とこんな感じで「吐いてでも食ってやる」作戦を続けていたら、

段々と吐き気が襲ってこなくなったw。

徐々に投薬期間中に吐き気を催す回数が減っていき、

最後の投薬の時は1回だけしか吐き気が来ないくらい激減していたw。

自分の気力に、体が応えてくれた感じだった。

上記のベテランナースさんから、

「そんな患者初めてだ」を言われた。

前例がなかったらしい。

改めて、転んでもただじゃ起きない性格なんだな、と自覚した。

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そんな感じでモチベーションを落とさずに済んだのは、

主治医の先生が割と自分の自由を尊重してくれたおかげでもあった。

自宅が車で数分なので、血液検査の数値が落ち着いている時は

よく外出・外泊を許可してもらえていた。

本当にこれが大きかったと思う。

抗癌剤投与したあと2週間はもう仕方ない、籠もって耐えるしかないが、

耐えたあと血液の数値が上がったら、回診の日以外は外泊OKにしてもらえていた。

外泊中は危険な事をしなければ基本的に何してもよし、と

かなりフリーダムでいい意味で大雑把な先生だった。

ただし医師としての見解と判断が当然ながら絶対事項で、

ダメだったら当然許可は取り消しされたこともあった。

でも、入院生活で気が滅入ることなく過ごせたのは本当に主治医の先生のおかげだと思う。

改めて感謝の念がこみ上げてくる。


前のブログでも書きましたが、

岡山大学病院は、横紋筋肉腫の西日本のハブな病院。

大阪などからも転院してくるようなところだったので、

当然ながら大阪の人は外泊なんてそんなにしょっちゅうは不可能な状況。

そんな中自宅があまりに近い自分は本当に恵まれた状況だったのだなと感じます。


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生き残りし者、そのタイトルとなるエピソードを書きます。


話は少し飛びますが、手術を無事終えた2日後、

痛み止めなどの様々な薬剤を点滴から投与された時。

そこから地獄も天国も見た。


投与されしばらくすると、ものすごく低い耳鳴りが急にし始めた。

「ん?」とすごく変な感じがし始めた。

程なくしたら今度は横になっているのに急に目眩が襲ってくる。

そうこうしているうちに完全に意識を失っていた。

(母やそばにいた看護師曰く、泡を吹いて唸っていたらしい。)


ふと気がついたら、トンネルのような、暗い筒状の空間の中にいた。

「何だ此処?」と怪訝な気持ちになって、しばらくその場で佇んでいた。

どれくらい時間が経ったのかは全くわからないが、

ふとした瞬間、光の輪が急に頭上を流れ始めた。

が、よく見たら流れているのではなく、自分が筒状の空間を移動していた。

しばらくするとトンネルの出口のような光が遠くに見えてきて、

段々と大きくなって迫ってくる。


「あ、ぶつかる!」

と思ったら、今度は本当に、目が醒めた。

まだ目がチカチカする状態で周りを見てみると、

どうやらICUにいると理解できた。

寝ているっベッドは病室のもの、

どうやらベッドごと緊急でICUに搬送されたらしい。


ふと気になって右隣を見てみると、

様々な管に繋がれた、意識のない患者さん。

生と死が、まるで薄い紙一枚だけで隔てられているような空間に感じた。

此岸と、彼岸。

隣の患者さんは、顕在意識がない状態で、

此岸と彼岸の境を彷徨っている、本当に生と死の最前線で戦い抜いている。


その患者さんに面会の方が見えたみたいで、

涙ぐみながら手を取り、

「がんばってね」と必死に呼びかけていた。


その様子を見て、

さっき抜けてきたのは生と死の境だったんだ。

やっとそう思った。

でも自分は結局「生」に戻ってきたんだ。


程なくして自分はICUから出ることになった。


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病室に戻ると、

母と、投薬をした若い医師が真っ青な顔をして立っていた。

どうやら自分は薬の後遺症もなく無事に戻ってきたらしい。


母は「ああ、良かった」とすぐ顔に血の気が戻って平静に戻ったが、

医師はずっと真っ青なまま。

まぁ、自分が投与した薬でショック状態に患者が陥ったのだから、

当然といえば当然、だとは思う。

でも、その医師を責める気にはならなかった。

これも命を試されている一つで、

責め立てたら命を取られるのだろうな、と何となく思ったから。


数日後、見舞いに来た妹に「医療事故だよ、裁判できるんじゃない?」と言われたが、

むしろそっちの方が身にも心にも悪いわ、ふざけんなと却下した。

不思議と医師や病院を責める気にも、戦う気にもならなかった。

結局生き残っているからそれでいいや、と不思議なくらいにあっさりと水に流せた。

今思い起こしても不思議でならないのですが。

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今回はとりあえず此処まで。

また続きは後日。

…いくら何でも長すぎるか 汗